「茶道王国」とも呼ばれる石川の茶道は、加賀藩の3代藩主・前田利常が宗和流創始者・金森宗和の嫡子七之助方氏(まさうじ)や裏千家の始祖千仙叟宗室を招いたことから始まったと言われています。
以来、金澤では武家屋敷だけではなく町人宅にも茶室が設けられるなど、加賀百万石文化を生みだし、金澤のお茶文化を発展させる基礎となりました。
このような金澤で生まれ育った文豪 室生犀星 も お茶に関わる作品を数多く残しています。ほんの少しですがご紹介いたします。
わたしは茶の花が好きです
あの花びらがひえびえと咲いてゐるのを見ると
わたしの心は薄荷(はっか)を舐(な)めたやうに
すずしく静かになりのです
古い染附物(そめつけもの)の壷などの
手ざはりをこころみてゐる一瞬のやうに――
茶の花の蘂(しべ)を指さきで揉むと
何といふ滑(すべ)つこい感じがすることでせう
その黄ろさは濃く温かい そして何といふあつさりした蘂(しべ)で
脆いほろほろした悲しげなけはひを 有(たも)つてることでせう
みんな俯向(うつむ)きがちで 空のいろも映さずにゐる花です
幹も葉も古い鉄のやうに健康であるのに
この花ばかりは沈みがちにやつと樹にもたれてゐる やうだ 思ひなやんでゐるやうだ 清らしげに――
(岩全犀星詩集より)
(犀星はお茶の木に咲く花を好んだのですね)
私は七十に近い父と一しょに、寂しい寺領の奥の院で自由に暮した。そのとき、もう私は十七になっていた。
父は茶が好きであった。奥庭を覆うている欅けやきの新しい若葉の影が、湿った苔の上に揺れるのを眺めながら、私はよく父と小さい茶の炉を囲んだものであった。
夏の暑い日中でも私は茶の炉に父と一緒に坐っていると、茶釜の澄んだ奥深い謹しみ深い鳴りようを、かえって涼しく爽やかに感じるのであった。
父はなれた手つきで茶筅ちゃせんを執ると、南蛮渡りだという重いうつわものの中を、静かにしかも細緻な顫ふるいをもって、かなり力強く、巧みに掻き立てるのであった。
みるみるうちに濃い緑の液体は、真砂子まさごのような最微な純白な泡沫となって、しかも軽いところのない適度の重さを湛えて、芳醇な高い気品をこめた香気を私どものあたまに沁み込ませるのであった。
私はそのころ、習慣になったせいもあったが、その濃い重い液体を静かに愛服するというまでではなかったが、妙ににがみに甘さの交わったこの飲料が好きであった。
じっと舌のうえに置くようにして味うと、父がいつも言うように、何となく落ちついたものが精神に加わってゆくようになって、心がいつも鎮まるのであった。
「お前はなかなかお茶の飲みかたが上手うまくなったが、いつの間に覚えたのか……」などと、父は言ったりした。
インターネットの図書館 青空文庫さん より
(犀星も金澤でお茶を親しむ時間を持ったのですね)
山茶花は白いほど品がよく淡紅はよくない。
蕾のころか零れ散るころかがわたくしの心に叶うてゐる。
枇杷や茶の花は枯淡以上のもので、枇杷になると花ではなく、古い陶画の一部を剥ぎ取つたやうに思へる。
茶の花の方がいくらか枇杷よりか優しくあでやかだ。
珊さんたる蕾の姿は霰や餅米のやうに小粒で美しい、どこか庭のすみの方に二三株、目立たぬほどに植ゑて置く心がけを侑すすめるくらゐで、ぢみな花である。
しかしその実に至つては天来の寂しみをもつて、割れて口を開けその根元に種をこぼす、母のこころをもつてゐる懐しいものである。
わたくしはよく椿の実を枝にたづねたものであるが、茶の花は根元の土の上を捜たずねる方が、早く種が見つかりさうである。
全く茶の実は枝にはなく土の上にこぼれてゐるからである
インターネットの図書館 青空文庫さん より
(犀星が暮らした金澤のお庭にはお茶の木が栽培されていたようですね)
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」詩句で有名な金澤出身の室生犀星(明治22年生)は、生涯傍らに【犀川の写真】を飾り、名前にも犀川から一字をとりました。
生涯、犀川の風情と、上流に見える山々の景色とを惜愛したと言われています。
小林屋茶舗から徒歩で数分の「桜橋」と「犀川大橋」の間の犀川両岸の道を【犀星の道】と呼んでいます。
この道は室生犀星が好み、散策を楽しんだ道といわれており、犀川大橋近くの生家跡には室生犀星記念館(金沢市千日町3-22)があります。
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金沢望郷歌
作詞:五木寛之 作曲:弦哲也
桜橋から 大橋みれば
川の岸辺に かげろう揺れる
流れる雲よ 空の青さよ
犀星(さいせい)の詩(うた)を
うつす犀川(さいがわ)
この街に生まれ この街に生きる
わがふるさとは金沢 夢を抱く街